(寄稿)いま語る、ドイツとの演奏交流の始まりの頃
平成17年6月
仲 津 真 治(平成4年〜10年 会長)
十年ぶり、二回目の訪独交流演奏は、バーデン・バーデン、ラシュタットいずれも大成功をおさめました。 今回もスタンディング・オーベイションが起き、鳴りやまぬ拍手、そして声援は、いつまでも長く続きました。 そして、いろんな企画や行事も成果を上げ、その後の各旅路も実り多く、まさに感動と感謝の旅行となりました。 五年前の音楽監督シュティーフェル氏来日による演奏会も入れ、お互いの十年余の労苦があらためて報われた気がします。 本当に良かったと思います。
ところで、今回、何人かの方から、どうしてドイツとの演奏交流が始められたのかと言う真摯な問いを受けました。 そこで、十年のこの節目に、あらためて、このことについて記したいと思います。
大事な方との再会
実は、今回のバーデン・バーデンの演奏で、大事な方と再会しました。 十年前はビオラ奏者として、この度は聴衆のお一人として参加された、岩田昇さんです。 この方こそ、私どもと、バーデン・バーデン・フィルハーモニーとをつなぐ、ドイツ側の接点となった方です。
思い起こせば、平成3年(1991)の第二回取手第九の演奏が終わった後、今度はドイツへ行こうという景気の良い声が出て参りました。 思いのこもった希望ですが、何の当てもなかったのです。
このとき、第九合唱団を単に解団するだけでなく、形を変えて親睦会として存続させ、次の合唱団を作る母体にしようと言う考えが、私を含め皆の間で芽生え、今日に繋がる取手第九親睦会が誕生しました。
いろんな所に当たりました
継続的な体制が出来て役員の一人となっていた私は、この訪独の企画の委員長と言うことになりました。 そして、暗中模索さながら、ともども果敢に、いろんなルートで当たり始めました。
まず、取手と言えばキリンビールがあります。 ビールだから、ドイツと何かの御縁があるでしょうと伺いましたが、特に取引先はないとの事でした。
次いでキヤノン、確かに御縁があり、かつてのライカの工場を買収した現地法人がドイツのギーセンに在るとのことでした。 かくして、接触が始まり、キャノンの社員を主力とする男声合唱団が活動している事も分かりましたが、結局、これといった返事がないまま過ぎてしまいました。 後で分かったことですが、ベートーベンの第九では、演奏曲目として取り上げにくいという事情があったようです。 でも、ギーセンとの御縁は大切と、前回の訪独の折り、この町を訪ね、親善交流を行いました。
欧米への演奏旅行を経験している合唱団の友人達にもアドバイスを頂きました。 これを受けて、幾つか英文の手紙を出すなど試みましたが、結局、うまく行きませんでした。
そうこうするうちに、日独親善演奏合唱団も出来て、積み立てが始まりましたから、焦りが出て来た折りも折り、別のルートでドイツから朗報が届いたのです。
遂に、ドイツ・フランクフルトから「朗報」
時は既に平成4年に入っていました。 当時、国土庁にて防災の任にあった私は、担当職員ともども災害対策に多忙で緊張の続く日々を送っておりましたが、ある時、春成氏と言う企画官から、「課長、そういうお話なら、自分はドイツのフランクフルトにある日本の観光事務所の所長をしていましたから、今の成定氏と言う所長に、ご希望をお伝えしましょう」との申し出を受けました。 「それは是非」と春成氏に御願いしたところ、その意が伝わり、私どもと会ったこともない成定所長が、こころを配ってくれるようになったのです。
ここで、「大事な方との再会」に記した岩田さんが登場します。 その頃、岩田さんの属する南西ドイツ放送管弦楽団は、日本を始めとするアジアへの演奏旅行を計画しておりました。 同楽団唯一の日本人である岩田さんは、その準備の一環として、日本に関する資料や情報を入手するため、フランクフルトの日本の観光事務所を訪ねました。 そこで応接した成定所長は、岩田さんの求めに応じ、いろんな日本情報と資料を提供した後、「ところで、日本の茨城県の取手と言うところから、
こんな話が来ています。 どんなものでしょう?」と話を切り出してくれたのです。
岩田さんは、「それは良いこと。 ただ、自分の一存では決められないから、帰って相談します。」と答えました。 そして、楽団の所在地、バーデン・バーデンに戻り、同地のもう一つのオーケストラであるバーデン・バーデン・フィルハーモニーの音楽監督のシュティーフェル氏に相談したのです。
シュティーフェル氏は「Eine gute Idee ! Es ist wunderbar ! 」(それは良い、素晴らしい。)と快諾してくれたと申します。 この知らせは、成定所長から、私宛に間もなく、フアックスでもたらされました。 「これは行ける」と思った私は、早速、第九の役員会で、お話ししました。 みんな目が輝きました。 やっと、道が開けて来たのです。
そう、岩田さんと成定所長の出逢いは、ドイツと日本の取手を結びつけてくれました。 当時、お二人とも、私どもの知らない人達でした。 見えない糸が、かくして繋がったのです。
日本人が本当にドイツ語で歌うのか
?
間もなく、ドイツから、第二報が入りました。 シュティーフェル氏が「ところで、日本人が本当にドイツ語で歌えるのか?」と疑問を呈していると言うのです。 これを受けて、「言葉で返すより、実物で」と言うことで、第二回の取手第九のカセットテープを、早速岩田さんに送りました。
程なく、これを試聴したシュティーフェル氏が、「Gut. Ausgezeichnet!」(これなら良い)との感想を語ったとの連絡が入りました。
事は軌道に乗り始めました。 しかも、私の弟など在独経験者から、バーデン・バーデンという所は、「実に美しい珠玉の様な町、世界的な温泉保養都市で、それゆえ戦禍も免れている。」と聞き、そういう町と知り合いになれる運の良さを実感したものです。
そこと、取手に縁が出来るのですから。
良い話が続く
岩田さん達、つまり南西ドイツ放送管弦楽団の演奏が日本で行われる時がやってきました。平成5年に入っていました。 私ども役員は、東京や筑波であった演奏に出かけ、岩田さんを楽屋に訪ね、御礼方々、初対面のご挨拶しました。
岩田さんは、その時、「自分は所属が違うが、バーデン・バーデンフィルとは同じ町の交流の深い仲なので、自分を含め、かなりの人がエキストラで出演することになるでしょう」と話してくれました。縁結び以上に取り組んでいただけると言うのです。 そして、「第九は、日本でと違い、ドイツでは時折しか演奏されないので大変です」と真情も吐露されました。
もとより、以上のままで安心は出来ません。ドイツ側と、さらに、しっかり詰めておく必要があります。 音楽監督シュティーフェル氏とはまだ会っていないし、協定も結んでいないのです。
何とかしようと思っておりましたら、同年、私が、スイスのジュネーブで開かれる国際防災行動年の会議に出席することとなり、隣のドイツにも行って同国内務省を訪れることになりました。
話がうまく回り出すと、運も巡ってくるようです。
この機会を利用し、出張中の週末を使って、初めてバーデン・バーデンに参りました。 そこで、岩田さんと再会、シュティーフェル氏やドイツ側の関係者と初めて会い、具体的な話を煮詰めました。 岩田さん同席のやり取りは、主に英語、時折り、ドイツ語と日本語と言う感じでした。
協定締結と初演奏へ
帰国後、取手第九日独親善演奏合唱団とバーデン・バーデン・フィルハーモニーとの間の協定の案の作成にかかりました。 私が原案を作成し、役員会での議論を経て固め、そのドイツ語訳をゲルストさん(在取手二十年余のドイツ人牧師)に御願いしました。 和独両文の案を送ったところ、暫くしてドイツ側からOKの返事が返ってきました。 協定の署名当事者は、シュティーフェル氏と私でしたが、岩田さんとゲルストさんには立会人になってもらいました。
その後、当方が正式に二通署名し送付し、シュティーフェル氏と岩田さんが署名した物が一通戻って来ました。 正直、ほっとするとともに、感無量の思いが胸をよぎりました。そして、「運良くここまで来られた。 あとは国内外とも実行、成功を期すのみ」と、みんな意を決したものです。
いよいよ、平成7年10月、まず、250名余の合唱団で取手での第三回目の第九演奏を開催、成功させました。
次いで、年末にドイツへ160名余の合唱団が旅立ち、バーデン・バーデンとラシュタットでの独初演奏を成功裏に敢行したのです。 特に、ラシュタットでは全ドイツ凍結と言われた寒波のため、開演が2時間余りも遅れ、聴衆が辛抱強く待ってくれました。
夜遅く演奏が始まると、人々は聴き入り、終演後、あまりの素晴らしさに七分間のスタンディング・オーベイションで応え、感動を露わにしてくれました。これは、その時のCDにもしっかりと録音されています。
御縁の大切さと運の良さ
以上、一読頂くと分かるように、世の中、やはり御縁だと思います。 知らない者同士が見えない御縁の糸で繋がっていく、その不思議さと有り難さに頭の下がるものがあります。そして、うまく回り始めると、好運が重なっていくことも分かります。
世の中、 こうした例ばかりではありません。 大正7年(1918)本邦最初の第九が演奏された徳島県の鳴戸市は、市内の坂東のドイツ人俘虜収容所の元ドイツ将兵がその第九演奏を行ったと言う縁の深さにもかかわらず、ドイツ側との交流が成らず、市長さんが「取手は何故、そんなにうまく行ったのですか、教えてください。」と私の所を訪ねて来られたことがあります。 他にもそう言う例を聞きました。 意欲はあれど、うまく行っていないケースが多いのです。
今なお続く、茨城県取手の第九を巡る事績は、良縁と好運に恵まれ、各自各位やいろんな皆さんの努力が実ったからだと思います。 この機会にあらためて深謝の念を表します。
併せて、文中、その名が出ました成定さんは、その後、日本に帰任された折り、お目に掛かり御礼のご挨拶を致しました。 私どものことを我が事のように喜ばれましたが、再び、ドイツでの勤務に戻られ、暫くしてから、急死されました。 残念ながら、私以外で成定さんに会った取手第九の人は居ません。 他方、ドイツとの親善交流に合唱団員や役員としてのみならず、ドイツ語始め大変ご尽力頂いたゲルストさんも、ご承知の通り、鬼籍に入られました。 ここにあらためて、御縁の深かった、お二人のご冥福を心よりお祈り致します。
末筆ながら、御縁のあった人々や御世話になった方々に感謝の誠を捧げ、筆を置きます。
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(寄稿)訪独交流演奏に至る道、そして、これから
平成23年2月 副代表・バス 仲 津 真 治
今回(2010年10月)で三度目となった訪独交流演奏ですが、初めての参加者が結構いらっしやいますし、良く聞かれますので、この機会に、あらためて、その創成の頃を想い起こしつつ、その後の発展のことを記したいと思います。
1 御縁を辿り、探して…職場の縁とフランクフルトの接点
平成3年(1991) の3月、第二回の取手第九が終わった後、次はドイツへ行こうとの声が出まして、それを企画する責任者となった私は、他の役員ともども、いろんな御縁を辿り、ルートを探しました。けれども、なかなか、うまく行きませんでした。
ところが、翌年になり、当時の国土庁で課長をしていた私に、春成と言う企画官から「自分はフランクフルトに在る日本の政府機関である観光事務所の所長をしていたので、後任の成定所長に繋いでみましょう」との話がありました。私は「是非」と御願いしました。
2 成定所長、岩田さん、シュティーフエル音楽監督など… 道が開ける
暫くして、その成定所長を訪ねて、南西ドイツ放送管弦楽団の日本人ビオラ奏者の岩田さんと言う人がやって来ました。日本などアジアへ演奏旅行を計画しているので、その資料が欲しいと言う訳です。所長さんは、その要望に応えるとともに、「取手の希望」を伝えてくれました。岩田さんは「良い話と思うが、自分の一存では」と、この件を持ち帰って、同じ町に在る、もう一つのオーケストラであるバーデンバーデン・フィルハーモニーのシュティーフェル音楽監督に相談したのです。二つの楽団は伸が良く、いろいろ交流があったと聞きます。
すると、シュティーフェル音楽監督は 「それは良いこと」と歓迎の意を表した由、その意向は成定所長から、直接私の所へFAXで届きました。続いて、「日本人が本当にドイツ語で歌うのか?」と、同監督が疑問に思っている旨が伝わって来ました。これには、当時はカセットで録音していましたので、それを送り疑問を解消しました。遂に、通が開けたのです。
ちなみに、この岩田さんは、この十月の演奏を聴きにクアハウスに足を運んでくれました。でも、ご自身は退職されていて、また属していた管弦楽団もバーデンバーデンから、もっと南のフライブルクに本拠地を移しています。一方、成定所長は、このお話を繋いだ御当人ですから、私もその後日本でお会いして御礼を申し上げましたが、その後鬼籍に入られました。
3 日本やドイツで直接会う
翌平成5年、来日した南西ドイツ放送管弦楽団の演奏を東京や筑波に聴きに行って、岩田さんにお目にかかり、次いで、私自身が国際会議等のため、訪欧する機会があって、運良く週末を活用し、ドイツのバーデンバーデンを訪れ、シュティーフェル音楽監督自身と会う機会に恵まれました。こうした経験から、実る話には、幸運が付いて廻ることが実感されました。
また、当時、取手には日本語の堪能なドイツ人牧師のゲルストさんと言う人が居られて、ドイツ側との協定を交わすなどの際、独訳の作成などで随分御世話になりました。この方も、平成7年(1995) の最初の訪独交流演奏は御一緒したものの、取手を離れる身となり、その後亡くなられました。 この場を借りて、故成定所長や故ゲルスト牧師に、その後のドイツとの音楽交流の進展ぶりをお伝えし、深謝申し上げますとともに、御冥福をお祈りするものです。
4 最初の訪独交流演奏と、その後の進展
こうして、まずは平成7年(1995) の訪独演奏に結実、続いて、平成12年(2000年) のシュティーフエル音楽監督の来取演奏による相互交流の実現、平成17年(2005)の再度の訪独、今回の平成22年(2010) の三度目の訪独と、日独親善の音楽交流は継続し、取手第九合唱団とバーデンバーデン・フィルハーモニーとの友好交流は深まりました。
これは良い事として、町同士の友好交流に発展すればと、取手市長が、バーデンバーデンの市長宛に「こうした御縁を友好都市関係に発展出来れば」と呼びかける趣旨の手紙を書いたところ、相手方から「それは良いこと。私も全力を尽くそう」との言辞が得られました。しかし結局、取手市側の事情で、結実させるに至りませんでした。バーデンバーデン市は、人口僅か五万ほどながら、世界的に有名な国際保養都市ですので、取手市がかかる関係を結んでおれば、日本はもとより、アジアで初めてのバーデンバーデンの友好都市となり、世界にアピール出来ただけに、実に残念なことです。
5 この度の訪独交流演奏、初の偉業の数々
取手市制40周年記念事業とも成って、この度の訪独交流演奏は、取手第九として、幾つか初めての事を達成しましたが、その内の二つを記します。
その一つは、ベートーヴェンの第九ではなく、他の曲としてハイドンの「四季」を取り上げ、その全曲を演奏したことです。休憩をはさんでも三時間に及ぶ大曲を良く演奏しきったと思います。しかも、バーデンバーデンとルードヴィヒスハーフェンの二都市での連日演奏で、ともにスタンディングオベーションを得ました。
もう一つは、バーデンバーデン・フィルやドイツ人のソリスト三名と組んで一緒に演奏したことは無論ですが、合唱をドイツ側と共演した初の試みとなつたことです。組んだ相手方は、1924年に第九を取り上げて結成されたベートーヴェン合唱団で、取手と同様、第九を最初の縁とする混声合唱団なのです。
こことの御縁は、三年前に私が取手市長からバーデンバーデン市長宛の書簡を託され、同市を訪れたときの話が端緒となつています。その際、私は取手での相談に基づき、バーデンバーデン・フィルのマネジャーであるヨーステン氏と、2010年の演奏に向け、諸々の話を詰めましたが、その一つとして、ドイツ側合唱団との共演の可能性があるか尋ねました。ヨーステン氏はそれを肯定し、その後、その話をまとめてくれました。それが、ルードヴィヒスハーフェン市に本拠地を置くベートーヴェン合唱団だったのです。
バーデンバーデンやルードヴィヒスハーフェンとの御縁をこれからも大切にし、みんなの力で継続・発展させて参りましょう。皆さんへの感謝とともに、ともども、よろしく御願いする次第です。( 「2010年 取手第九合唱団記念文集」 より転載 )
<管理人注>
本稿は、第3次訪独交流演奏のあと発行された「取手第九記念文集」に掲載されたもので、
前稿と内容が重複する部分があります。(2011.2)
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御縁が生きました、東電オケが参画、貢献
副代表 バス 仲 津 真 治
昭和61年(1986) 以来、今回で六度目となる取手第九ですが、いずれの第九も、それぞれの創意工夫と苦労があり、呼び掛け人、役員、団員、諸々の関係者の参画と理解・協力で実現して参りました。その中で、今度の第九で初めての取組みと言える特徴があります。それは、オーケストラをアマチュアの管弦楽団にした事でしょう。
御承知の通り、こういう演奏事業は大きな費用がかかりますが、これまでは諸々の仕組みや制度を活用し、助成などを得て、足らざる収入を確保する方法によって参りました。しかし、世の中はどんどん厳しくなって来まして、今度は支出を減らす方に転じた訳です。
そこで、費用で最も大きなものは、大人数のオーケストラ代でして、プロなら四、五百万円のオーダーになります。何とか出来ればと知恵を絞った結果、アマチュアとの連携を考え、東京電力の管弦楽団に頼んで見ようと言うことになりました。この会社は私が顧問をしていて、御縁がありますし、アマチュアながら、立派な演奏をしているからです。議論は在りましたけれども、結局その線で御願いしました。
すると、同管弦楽団でも議論が行われたようですが、基本的にOKとの返事が参りました。一つは、2月に自らの定期演奏会があるから、7月に取手本番なら、その次の2月定演も視野に入れた練習日程が組めるというもので、もう一つは、入場料を取る演奏会には東電管弦楽団としては出演できず、その有志により結成する団としてなら可能というものでした。 かくて、この団の名称は取手第九側とも相談し、ご存じの「東京第九特別管弦楽団」というものになった訳です。
こうして、練習や諸準備と諸調整を進めた結果、この平成22年7月25日(日) の真夏の「第九」とハイドンの四季より「夏」の演奏が盛会かつ成功裏に行われました。あらためて本当に良かったと思います。(楽団へは交通費や運搬費などの実費の支払いだけとなり、それは百万円少しに止まりました。)
振り返りますと、管弦楽団の皆さんと、新橋の東電本店近くの練習場で合同練習するなどの交流が進むうち、東電管弦楽団にとっても「いつもは無い負担が増えた」と言うのとは違う面があることが分かって来ました。これは、取手第九の役員と同楽団の運営委員の皆さんとで、演奏成功のお祝いと懇親のための場を持ったとき、一段と鮮明になりましたね。
それは、管弦楽団にとって、まず、第九はなかなか演奏する機会がないため、それを実際に練習し、本演奏できるチャンスが得られたことであり、また、合唱団と組むこともなかなか実現できないので、それを体験できる貴重な場となったと言う事です。つまり、合唱団側のみならず、オーケストラ側にも大いにメリットがあったと言うことです。 こうした交流の場を持つのはプロのオケとはありませんし、東電管弦楽団でも合唱団との懇親・交流とは初めての体験とのことでした。
このときに、最大の傑作な遣り取りは、「楽器が出来ないから、せめて歌でも」という取手第九側の挨拶に対し、「歌が下手だから、楽器なら何とか」と言う東電オケ側の自己紹介があったことでした。出会い、話して見て、初めて分かると言う事は、あるものなのですね。( 「2010年 取手第九合唱団記念文集」 より転載 )
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<2010.2.24更新>