ここ TMC SALOON は、団内外の皆様に開放された談話室です。
ただ、一般の「掲示板」等と違って、いったん管理人までメールでお送り頂いたものを掲載させて頂いております。 (管理人)
(管理人あてメールはトップページからどうぞ)
以下日付逆順に掲載します
バックナンバー 0 (2007.1.1までの掲載分)
水車・梅雨の晴れ間
練習中の曲、多田武彦「柳河風俗詩」、その第4曲(梅雨の晴れ間)は
♪まわせまわせみずぐるま・・・・♪ で始まる。
この水車は、粉ひきなどの動力源としての水車ではない。 人が水車を回して、その水車によって水をより高い方へと送る、揚水機材である。多くの場合、水車を人力で運んで田のあぜなどをまたいでセットし、人が水車の羽根?に乗って足踏みで作業する。人が手で掴むためのバーが付いていて、何しろ足で踏むのを止めるわけに行かないのだから、きびしい。
もちろん、固定的に設置されている場合もある(あった)が、動力事情の進んだ昨今、実物を見かけることは、まずない。
この労働を狐忠信(人形浄瑠璃や歌舞伎の登場人物)の舞台と重ね合わせた白秋という詩人は、やっぱり我々とは住む世界が違うと、「ノスカイや」や「三味線の細い吐息」に無縁なわれら無粋人は、よき時代を想像するのみである。そんな原風景が現在の柳川(市)にはあるのだろうか。
白秋は、「水郷柳河こそは、我が生れの里である。我が詩歌の母體である」と言ったと伝えられる。 注:旧柳河町は合併後柳川市となった。
そんな水車の実物を見かけた。守谷市のとある緑濃い住宅地の一角に個人ギャラリィがあって、そこのインテリア(だろう)として生き延びていた。聞けば、近くの農家の片隅で邪魔扱いされていたものだそうで、珍しくも貴重なものだと思った。
(北の旅人。 2015.7.5)
猛暑・酷暑・炎暑・・・・3題。
◇学生時代の友人N氏は土佐中村市(現:四万十市)の出身である。
ここ数日の高温記録を塗り変えた四万十市、ふと気になって残暑見舞いならぬ暑中見舞いを出した。
立秋を過ぎたら残暑見舞い、位の常識はあるが、今年は「残暑」などというものではない。
早速返信されたメールによると、奥さんが「旦那に日本一を取られた」と悔しがっている、とのこと。
なんじゃいこりゃ、と読み進めると、なんと彼の奥方は多治見市の出身とのことだ。
うーん、日本一のアツイ夫婦、というわけか。
◇おとといのことだ。隣の遊水地に行ってみたら、直径2m足らず深さ10−20cmのほぼ円形の水溜まりにクロメダカが群れていた。
このところの水不足でいつもの溝が干上がってしまい、メダカの行き場がなくなったのだった。
かわいそうなので、孫の置いていったタモで2回ほどすくい上げたら数百匹、バケツなどを動員して、今のところ何とか命をつないでいる。
中一日おいて、今日見たらさらに水量が少なくなり、完全に干上がるのは時間の問題だ。
雨よ降れ、頼むから。
それにしても、いまTMCで練習しているのはタダタケの組曲「雨」。皮肉なものだ。
”ざあ〜っと降って来いよ〜〜〜夏の雨〜〜〜”
◇わが市は県でトップの放射線ホットエリアである。 さきの遊水地でも放射能除染工事が進行している。手持ちの線量計を使って積み上げられた土嚢のいくつかの線量を測ったら 0.54μシーベルトあった。
この土嚢は、ここ数日以内に同じ土地の一部に坑を掘って埋め込まれる。汚染土をどこか他の場所に移すのではなく、すべて自己完結で保管するのだ。半減期30年だから、60年後には1/4になる計算だが、まだまだ高い。
ここ1ヶ月ほど、雨らしいものは降っていない。隣接の市町村で土砂降りの報道があっても我が町だけはどういう加減か、降らないのだ。
ああ、それなのに、、、、なぜあのとき、選りによって強い放射能を運んだ雨が、なぜ当地にだけ降ったのか、今さらながらの恨み節。 (2013年8月、北の旅人)
腹から進め??
ふれあいコンサートで、久々に我がTMCは「いざ起て戦人よ」を歌いました。
男声合唱の定番曲です。
ところが、WEBでなんと言うこと無しに見て行くと、とんでもない質問があったんです。
いわく
「すすめよ腹から」「送るなあだに」とは、意味不明、誰かおしえてくれませんか?」なのだそうです。
信じられん。わざと書いた、最近はやりの低級なジョーク、だろうと思っていますが。
読んだら、なんだか変に力が抜けました。もう、この曲歌うの、止めませんか?「御旗にする」のはウボイの方が、日本語でないだけまし、かも?
言うまでもなく はらから、は同胞、おくるな は後るな、 ですよね?
違うって?困ったですな。
(2013.1.28 北の旅人)
取手合唱仲間を郷里「鳴門第九」に案内
−ベートーベン第九日本初演の地で感動の合唱−
永野匡見
私の出身地は徳島県鳴門市の板東(ばんどう)という町で、高校卒業の18歳まで過ごしました。その頃のわが町は、四国88ヵ所巡礼の1,2番札所や阿波一宮の大麻比古神社で大勢のお遍路や初詣客で門前町として大変活気に溢れていました。その後上京しましたが、1970年代初め、第二次大戦引揚者が住んでいた校舎のような大規模集合住宅(1,000人規模)の近くに「ドイツ館」という市の観光施設が完成しました。その展示資料によりこの集合住宅は、もともと第一次大戦で敗れたドイツ兵を収容していた板東俘虜(ふりょ)収容所であり、ここで1918年(大正7年)6月1日、日本で初めての第九演奏が行われたことを知りました。それまで地元の歴史にうとかった私ですが、記念すべき凄いことがわが郷里で行われたのだと誇らしい気分になったものでした。今でこそ年間300回以上もの公演回数を数える第九演奏の最も盛んな国となった我が国ですがその歴史は浅く、この板東での初演からまだ90数年しか経っていないのです(世界の初演は1824年にウィーンで、約190年前)。 2006年封切りの「バルトの楽園(がくえん)」をご覧になった方もいるかと思いますが、ドイツ兵の板東での暮らしぶりを詳しく伝えていて、俘虜収容所長松江豊寿の「お客さんではないが、罪人でもない」という人間味溢れる処遇でのびのびと生活しながら地元の人々とも交流。楽団演奏、演劇、スポーツに興じる一方、バター・チーズの製法やパン製造技術などを地元に伝えながら、異国での3カ年を過ごしたそうです。
ベートーベン第九の日本初演の地で生まれたものの第九、合唱にはずっと縁の無かった私ですが、2001年、勤務地の敦賀市で知人の薦めにより敦賀第九に初めて参加しました。学生時代以来の30年ぶりのドイツ語で、暗譜に苦労した記憶がいまだによみがえりますが、本番をやり終えた感激は何にも代え難い素晴らしいものでした。茨城県取手市に戻ってからは取手男声合唱団に入団しながら2005取手第九や第九の母国であるドイツ・バーデンバーデンでの公演、そして文京区第九、国技館第九などに参加しているうちに郷里鳴門市でも日本初演の地を記念して毎年6月第1日曜日に第九演奏が行われていることを知りました。ほどなくして郷愁心も手伝って郷里でも歌ってみたいと思うようになり、2007鳴門第九にエントリーしたのでした。エントリーの後、演奏会概要が届きましたが、日ごろ取手男声合唱団でご指導頂いている伊藤純先生がバス・ソリストとして名を連ねているではありませんか。なんという奇遇でしょう。不思議なご縁にビックリしたものでした。演奏会当日は駆けつけてくれた兄弟家族を前に郷里で初めての第九を力一杯歌い上げ、その後は伊藤先生と時間を忘れて懇談させて頂きました。
2度目となる今回の2011鳴門第九については、ご承知のように3月11日に東日本大震災があり、主催者は開催をどうしたものか相当思い悩んだようですが、4月になり多くの音楽家が被災地に赴き、音楽で被災者を勇気づけているのを見て、開催に踏み切ったとのことでした。このような中、取手から16名(男性6名、女性10名)の合唱仲間と参加しました。日本初演の地の人気はさすがで国内は北海道から鹿児島まで47団体のほか米国からの参加もあって総勢630名もの大合唱団が編成され、この中には被災地の宮城県岩沼市から厳しい状況の下、2名が参加されていました。
16名の取手団の遠征にあたっては私自身、出身地のよしみで案内役として地元にいる兄弟、従兄弟と相談しながら旅行計画や準備にあたりました。6月4日の移動・前日練習、6月5日の本演奏と慰労会、そして翌日の市内観光等々2泊3日の第九ずくめの旅でした。市内観光ではドイツ兵の俘虜生活や第九に因んだ歴史資料を展示する「ドイツ館」、映画ロケセットを移築した「バルトの庭」、ドイツ兵が帰国記念として造った石造アーチ橋の「ドイツ橋」、そして「鳴門の渦潮」などを見て回りました。回り終え皆さんから「大変楽しかった、良かった」という声を聞き、ホッとすると同時に、郷里の文化イベントに大勢の皆さんを案内できたことをこの上なく嬉しく思ったものでした。
後日、参加者でこの演奏旅行の感想、思い出を持ち寄り、記念文集を作りました。ひとりひとりのベートーベン第九への思いが詰まった15ページの素晴らしい冊子に仕上がりました。お世話になった鳴門第九事務局にもお送りしたところ、先日、ご丁寧な礼状を頂いたところです。文集が仕上がり、今回参加できなかった団員から6年後の初演100周年の鳴門第九には是非、参加したいと言う人が出てきています。私にとって鳴門第九は郷里とのかけはし。これからも健康に留意し、100周年記念鳴門第九に再び多くの取手の皆さんを案内出来れば、と思っています。
敦賀の知人に勧められ、恐る恐る始めた合唱。10年を経過した今、セカンドライフの中心になった感があります。毎週の練習で生まれた課題を各自が一つずつ改善して、次回に臨む。みんなで息のあった情感のこもったハーモニーを夢見ての共同作業です。きっかけを頂いた敦賀の知人、教わっている先生方や合唱仲間に感謝・感謝の毎日です。
(2012.7.11受付)
唱歌を知らない世代
最近のことだ。「ふるさとの四季」は、たれもが知っている曲が並んでいる合唱曲、という固定観念が何となくあって、小生には(歌唱表現が、というわけではない。暗譜が、もっと有り体に言えば、歌詞を覚えるのが)易しくて、逆に軽く見がちだったのだが、最近の人たちには難曲ともいえるそうな。いわく、子供の頃聴いてフシは何となく知っていても文語の歌詞がひらがなで書かれていて、日本語としての認識に苦しむ・・・・ということだった。
たとえば、「ホトトギス ハヤモキナキテ」「シノビネモラスナツワキヌ」、もはや外国語扱いだと嘆いておられた。考えてみれば、「サミダレノソソグヤマダニ サオトメガモスソヌラス」姿はもう見られないし、「ムラノカジヤ」の作業場は60年も前に見たのが最後なのである。
その人は、完全カナ書きの譜面に漢字仮名交じりで全歌詞を書き込んでいるのであった。
でも、彼女はヨーロッパ古典音楽にはめっぽう強く経験豊富なたぶん40歳代。
「おとなの日本語曲がうたえるように精進します」とのことであった。
日本の唱歌を歌うのに苦労する若者も、ポピュラー曲でやたら英語の歌詞が不規則に混じる、いわば和英混淆文の、シンコペがぶちまけられている幼い表現と感覚の楽曲には強い。でも、日本語、なかんずく文語表現の豊かさ奥深さはお呼びでない、文語は古い、と思ってしまう、日本文化はもう自然な継承は望めない時代なのだろう。
いっぽう、こんなケースもあった。
某混声合唱団に若い男声(といっても30歳台だが)メンバーが居たが、合唱編曲したとはいえ、「イエスタデイ」を知らないのであった。アラカン(「あらうんど還暦」世代)のおばさん(失礼、アルトの女声)たちがあきれた声を挙げた。「あなた、イエスタデイ、しらないのー?」 。失礼な話だ。自分が知っていた曲だからといって、そんなに他人を馬鹿にすべきではない。 彼よ、心配するな、そんな声は気にするなかれ。譜面に沿って歌えば良い。
小生などは逆にイエスタデイは我が青春時代の後から出てきた曲なのだが、まあ、合唱団にはいろんな人・いろんな世代が居るものである。
自分の育った時代の歌を一番身近に感じる、ただそれだけなのだと割り切って、今後もいろんな曲をたくさん歌ってゆきたい。
(北の旅人・2012.6 改)
レコードの復活
押入の奥からレコードプレヤーが出てきた。40年以上前に使い始めて、その後CDの普及に伴いお蔵入りして20数年眠っていた筈である。良い機会だとばかり、配線して勇んでスイッチを入れたが、動かなかった。 アルミの重さを感じつつターンテーブルをはずしてみると、何とベルトが溶けてしまっていた。ねばねばになったゴムの残骸をナイフで慎重にそぎ落として掃除し、とりあえず輪ゴム7本をつないで急場しのぎのベルトとして何とか回転し始めた。
そうなると何か音を聞いてみたくなる。 適当に取り出したのはバーンステインの「田園」。ジャケットには1968年購入、のメモがあった。でも、長年放置したせいで使い慣れたカートリッジは見あたらず、しかたなく以前粗大ゴミから外して拾ってきたMMを取り付けて、音だけは、出た。 ベルトがでこぼこだからワウ(回転ムラ)が感じられ、何とも懐かしい音がした。
1曲終わる頃には音もほぐれてきた。まあ、ふた昔も眠っていたカートリッジでダンパーゴムなども劣化していると思われるのに、それにしては結構な音が出た。調子に乗って立て続けに数枚のLPを聴いたが、盤面のカビ掃除が大変だった。でも、聴くほどに音質は劇的に好転した。固くなった振動部がほぐれてきたのだと思った。
すべてが思い出深い物であった。買うからには良い物をとベルトドライブのものを選び、当時の給料かそれ以上を投資したのがこのプレヤーであった。これを自作のアンプにつないで使ったのだ。給料手取り2万数千円の当時である。1枚¥2000円のLPを買うのには勇気が要った。それが、いま日の目を見たのである。LPを処分しなくて良かった。
現用のアンプにフォノ入力端子があったのは幸いであった。LPからはしっとりと落ち着いた音がする。音を出す前の儀式(レコードディスクをジャケットから慎重に取り出し、クリーナでていねいにホコリを払ってターンテーブルに載せ・・・・)で心落ち着かせ、出てくる音に耳を澄ます。 CDより一手間かかる、これからはそのようなことを、できるのだ。 とはいえ当然ながら輪ゴムでは回転ムラがあったので、メーカーに問い合わせ、マッチするベルトを通販で取り寄せ、ひょんなことからLP環境が復活した。 しかし使い慣れたカートリッジはどこへ仕舞い込んだか、まだ見つかっていない。例の拾ってきたM44GというのはS社の製品で今も交換針が簡単に手に入るとのことだから、まあ、これで時々音を出すことにしよう。
それにしても、最近の若い人はLPそのものになじみがない。 溝があるんだぁ、針はどれ?などと言っている。CD世代だから当然の反応なのだろう。 その後MDが出て短期間で姿を消し、SACDを横目に、「使い捨て音楽」のネット配信の時代になりつつある。
LPからCDの時代になって音質は(底上げはできたが)悪化し、その後の技術改良によりかつてのLPの繊細な音質が蘇りつつある。もっとも、わが日本人の割り切り癖か文化の相違か、78回転のプレヤーとSP盤は急激に姿を消し、かつての名演奏の記録は葬られてしまった。変化は激しいがこれが「進歩」なのだろうか。お仕着せや画一でなく、自分の欲する音楽をじっくり確かめながら入手し、長く楽しんでゆくことから徐々に遠のいてゆくような気がするのだが。 (2012.1.31 北の旅人・転載、2016年改)
25周年に
事務局長から、来年(2012年)新年早々の日程・練習計画のお知らせメールを頂戴しました。
その中で、
> (2012年)1月15日は取手男声合唱団の創立記念日で、団は満25歳となります。
と当団創設25年の事にふれて頂きまして、大変うれしく思います。
それは昭和62年(1987)の1月15日(当時、成人の日で祝日)に開かれた、取手男声保存会の会合のことをふまえての事と存じますが、そこで出た「男声合唱をやろうと言う想いと声」が端緒になって、取手男声合唱団は出来て行きました。(関連記事)
その会は、成功裏に開催された、前年12月取手初の、ベートーベンの第九演奏会の男声有志が集ったもので、私も参会者の一人として、懐かしく思い出します。
あれから、25年、四分の一世紀になるのですね。感無量のものがあります。あらためて、皆様方やこれまでお世話になった方々に感謝致します。
バス 仲津真治 (2011.12.25受付)
定演が終わった
今年の定演は、公民館の講座室に満席300名のお客様に来て頂いた。
例年市民会館などの大ホールを使っているから勝手が違うこともあった。お客様からは、会場が小さくてもったいない、とか、近くで聴けて迫力があった(ありすぎた?)、照明が暗くて表情がいまいち語りかけてこない、和気あいあいで良かった、無料公演で気楽に聴けた、等々、いろんな感想が寄せられた。
スケジュール調整と会場確保ができなかったので確かに従来のホール(550,800,1100席・・・)より狭く、申し訳無い面もあったと思う。
でも、過日の糸魚川での演奏とほぼ同じプログラムは団員に気持ちの余裕を生み、まずまずの演奏ができたと思う。中でも「水のいのち」は2週前に取手混声の皆さんが定演で歌われたこともあって、意識がどうしても緊張気味だったのではなかろうか。でも、実際に歌い始めると雑念は去り、我々の表現したいのはこれだ、と言う淡々たる歌唱だけが残った。
次回は来年1月のJORDAN会合同演奏会(柏市民文化会館ホール)、その前には取手市の催しもあり、我々には良き発表の場が目白押し。
そして、定演後のこんにち、新入団員5名(6名?)を迎え大喜び、そして新人諸氏には早くみんなと一緒に歌う為の練習の喜びが待っている。(M)
「U Bojの歌える合唱団」
皆様の迷惑顧みず演奏会の選曲に「U Boj」を提案、採用となりました。言葉読みには諸先輩方いまだに苦労されているようですが、先日のJORDAN会、歌仲間で開いた宴会と必ず歌う定番となりつつあることを感じている。
男声合唱団としては当然のように感じるが、でも「U Boj」が歌えることはある種ステータスだし、TMCも一クラスあがったと胸の張れる。(ちょっと大げさか!)
さてさて、次はどんな曲で諸先輩方を悩ませるか・・・、その節は平にご容赦の程を。
(バス 伊藤/09.2.21受付)
すりらんか
管理人にスリランカからのメールが届きました。 仕事で海外赴任しているTMCの団員からでした。 いつ帰国できるのでしょう? 集中練習で充分追いつけると信じて頑張ってるみたいです。そう、次回演奏会には、また一緒に歌おうではありませんか。 体には気を付けて下さい。
最新情報は出来るだけHPに載せますから、ときおり見て下さい。 (管理人・2008/12/7)
アンプの再生
いや、簡単に言えば廃物利用。故障したアンプの一部のプリ部だけを生かして既存のアンプに繋いで再使用したのである。
それまでのアンプを故障で2年前に処分した後、予備の、音質調整機能の付いていないアンプを使っていた私は、ほんの少し音質調整すれば良くなるのにと不満だらけであったが、新調するにも先立つものは予算、アキラメの心境であった。
ふと思いついたのは我が家で一番古いアンプ、結婚当初から20年くらい使って、その後故障し、然し思い出の機械なので捨てきれず永年飾り物と化していたトリオのアンプ。これを引っ張り出してきて、チェックしたところプリ部は健在だった。 たぶんパワートランジスタ1個がダメになっただけ、だろうと見当をつけて、回路を切断しプリアンプとして現用機に接続してみた。ボリュームからのノイズはツマミをぐるぐる廻している内に直った。
テストの結果は上々、それまでの堅くて細い音は ふくよかな厚みを持って鳴ってくれたのだ。
スピーカーを代えたわけでもない。ただ(間に合わせの古い機材)プリ(とも言えない単なる回路)が追加されただけなのだが、音質はまるで変わってしまった。 面白いのは、音質フラットなのに音全体が変わったことだろう。操作性も良く、当分これで楽しむことになりそうだ。 費用ゼロ。 結果論だが、組み合わせの妙、相性が良かったのだ。 これで幸か不幸か新アンプの購入は無期限先送り。どこにいいタネがあるか、予想は難しい。(北の旅人 11月受付)
取手市民音楽祭が近づいた
取手合連15周年記念演奏会が済んではや2年になる。オケと共に土の歌やオペラ曲を歌った感激が、ついこの間の事のように感じられる。 そして、毎年のことながら、今年も取手市民音楽祭が具体化しつつある。 取手の催しの特徴は、合唱のみならず吹奏楽、少人数のグループの演奏、琴や和太鼓、吹奏楽、、、等々、多彩な団体が出演することである。 例えば合唱のあとブラスの響きに感動し、ハーモニカにリラックスし、語りを楽しむ。近郊にももちろん各種団体が出演する催しはあるが、合唱団が沢山出演し、なおかつ幅広い、という性格は、自慢できるのではなかろうか。
もっとも、近郊の都市では合唱だけでも40団体、いや、もっと多くて、松戸などでは2日間に分けて合唱祭をやっていて、こんな場合は多彩な団体の出演はえらく工夫が要るだろうから、取手は適度な団体数の地域性に後押しされた、考えようによっては恵まれているようにも思える。
「芸能祭」のような催しも各所で行われるが、筆者の印象では(どこでも)カラオケとか舞踊に代表される出演者が中心で、自分の出番(と、ごく親しい限られた仲間の出番)を終えるとさっさと退出してしまう。他人はメじゃない、互いの切磋琢磨などの雰囲気が感じられない。とてもじゃないが筆者などは長居する気がしない。
でも、市民音楽祭となると話は別だ。互いに聴き合う楽しみ、切磋琢磨がある、と思っている。
すでに曲目も決定し、事業団のHPには掲載されている。でも長時間だから、どうしても目当ての団体をある程度絞ってその出演時刻をねらって会場に行く人も多い。事業団には、ぜひ、出演順や予定時刻などを早めに公開して下さるよう望みたい。今年(2008年)の催しは12月7日(日)10時から取手市民会館で開かれる。 (北の旅人。2008.10.8受付)
10周年記念コンサートにご来場ありがとうございました
取手男声合唱団の皆様
9月14日の柏フィル10周年記念コンサートには、ご多用中をおいで頂きありがとうございました。これまでの思い出深い曲を中心に歌った緊張のステージでしたが、満席のお客様に大きな励ましの拍手を戴き、団員一同感謝いたしております。いっぽう、会場のアミュゼ柏クリスタルホールは席数も限られ、一部のお客様にはお聴き頂くことが出来ませんでした事をお詫び申し上げます。
来年は秋に第5回定期演奏会を予定し、すでに練習に励んでおります。今後とも宜しくお願い申し上げます。
2008.9.15 柏フィルハーモニー合唱団
俳句は「四、四、四」?
五七五ってなぁんだ? 俳句、いや、川柳も。 これ、常識。
でも、実は四、四、四拍だ、という話を、最近読んだ。(石井宏:「西洋音楽から見たニッポン」 PHP)
ごく簡単にご紹介すると、五七五というのは日本語で書くときの字数の話で、これを朗唱すると実は4拍子になる、字面には現れない休止符があって、これを加味すればまさに四四四、これが西洋人のリズム感覚なのだ、というのである。
たとえば、「フル・イケ・ヤ□・ウン/カワ・ズゥ・トビ・コム/ミズ・ノオ・ト□・ウン」(ウンは1拍休止、□は半拍休止)、同様に三三七拍子は四四四四の4拍子のリズムに乗っているから快く響くのだ、というのが著者の文意である。いわく、「チャッチャッチャッウン/チャッチャッチャッウン/チャッチャッチャッチャッ/チャッチャッチャッウン」。 三本締めにも当てはまることは言うまでもない。
また、フェルマータは日本人の感覚だと「延ばす」だが、実はそうではなく、ここでリズムの進行を「停止する=stop」という意味で、かのイタリアではバス停もフェルマータと呼ばれるのだとか。
幼児の頃からリズムに慣れた音の世界に育った白人と、東洋風の、旋律をリズムより重んじる、というか、リズムに感覚が向いて行かない朗詠・都々逸流の美感の差に言及したこの書物は一読に値しよう。(北の旅人 08.6.10)
えっ? ブログ?
「ときおり見ています」とのメールを戴いた。
小生の名前の付いたブログがある、らしいので、検索してみると、けっこう沢山出てきました。
でも、同名ですが小生とは関係有りません。小生は今のところブログを持っていません。
お褒め頂いた方には申し訳ないと思うが、日記のたぐいが苦手なうえ、人様にお見せできる情報の持ち合わせがありません。あしからず。
まあ、このペンネームを使い始めたのは20年近く前からで、いまさら変える事は考えていませんが、ひとこと弁明。 (北の旅人 08.4.21)
或るステージでの想い出
広く知られている曲を歌うのはなかなか難しいことだ。日ごろ無意識に口ずさむような演歌がらみだとなおさらである。 私は、合唱の編曲と、聞き覚えやカラオケ等で長年親しんだ自分の旋律やリズムなどが合わないせいもあると思う。 数年前、「美空ひばりコレクション」では、どうしてもカラオケぐせが抜けず、結局合唱編曲のほうを変えて歌った部分があった。そのため、合唱曲として非常に重要(だと私は思ったが)な和音が平凡な響きに変わってしまい、たった1箇所の半音の違いで合唱曲の面白みが消えたのだ。
また、耳慣れた曲,との安心からか元気に歌い出してしまい、ピッチにもさほど注意が行き届かず、しかも自分一人なら気付くのに、かなりの人数だから勢いで歌ってしまう。直前まで丁寧に仕上げの練習をしたのはどこへやら、ただただ大きな声で歌っている。 特にひばり、などは聴く方も親しい曲だから、「今日の皆さんは○○○(歌手名)になりきってましたね」、「のびのび、元気でしたね」などとオーディエンスの皮肉なコメントをもらうことになる。
また、公民館祭などでは会場を埋めるおばちゃん達の反応は正直で、ちゃんとした演奏だと静かに聴いてくれるがダルイ歌唱だととたんに声高なおしゃべりが始まって、もはや止むことは望めない。客席の反応は我々の気合いと努力の反映なのだ。「このおばちゃん達が静かになって惹きつけられるステージにしたい」といつも思うのだ。
今回小生は法事のためふれあいコンサートを欠席したので、TMC始め各団体がどんな演奏だったかは知らない。TMCも以前よりはうまくなっているから大丈夫だろうが、曲目などに似たところがあるので、何となく以前のことが思い出された次第。(北の旅人 2/26)
白山公民館祭を聴いて
今日のTMCさん、期待に違わずいつもながらの美しいハ−モニ−でした。裕次郎曲難しそうでしたが、歌謡曲もクラシカルに唱うと格調が高くなるのだと実感しました。特に「夜霧よ今夜もありがとう」は心に沁みました。唱っていらしても、公民館オ−デイエンスの反応が(ドイツ語の曲と違うのが)お判りだったでしょうね。 私もそのように感じました。「TMCさんの新しい一面をお聴かせ下さった今日の演奏会」、ありがとうございました。(2008.2.10 取手市 Yu 様より)
謹賀新年
明けましておめでとうございます。今年もHPをどうぞ宜しくお願い申し上げます
(管理人 2008年元旦)
第8回定演コメント集はこちらから
9月20日浜離宮朝日ホールでの取手男声合唱団の演奏感想/萩野芳造
最大の印象は、私にとって初めての新曲であった、作曲家が聴衆席で挨拶された曲でした。歌詞に良くマッチし、さらに、メロデー、曲の流れ、展開が素晴らしく、もっとこの方の曲を聴きたいと思いました。次回には、ぜひ、数曲別枠での作品集をお願いします。
演奏の私見を申し上げます。まず最初の合唱で、結構、人数が多いのに驚きました。私は細かく聞きたいので、最前列で拝聴しておりました。
合唱団の最前列の、客席から見て右の数人の方々のバリトン的発声が出来ているような、中音、低音に厚みを感じました。
それに反して、高音のテノールの、客席から見て左側のグループは、合唱の場合でもプロがいると、高い音の時に、鼻腔の共鳴が有るので、音に芯が出来て、全体の音に、芯を背にして、綺麗な、富士山から、バスの深い川まで、幅の広い厚みになる、役目の一端を担うのですが、この芯が聞こえなかったのです。しかし素人合唱団のような、共鳴が出来て無く、勢いで割れるような音を出す方は、1人もいなかったので、安心ですが、もう一歩、芯のある声が聞こえる合唱団になられるよう願っています。
私は、安本さんが居られるのに、おかしいと思い、安本さんのお口を見てたら、大きく開けることが、なかったので、小さい声で歌っているようで、疑問に思っていました。
2番目の唱歌の四季では、懐かしい良い歌の曲集ですが、ピアノ伴奏の部分の編曲が、全曲を通して聴くと、良いとは云えない曲想で、単にその曲の和音と、リズムのための伴奏という気がしました。曲を選ぶときは、歌だけでなく、演奏曲としての、聴衆の立場から、伴奏でなく、曲がとの様に構成されて、纏まっているかに、みんなで聞いて、それから、全体を通し、ビデオにとって、各人どの様に歌ってるか? 選択された曲は如何であるかをみんなで中間時期に検討されたらいかがでしようか。
無伴奏の曲の時に、最初のピアノを叩くやり方は、改められませんか、素人ポイ典型ですが、音楽はプロもアマも関係ありません、全体をピアノ伴奏にして、曲間を編曲でうまくつなげるとか、絶対音感の方のハミングから、各パートの最初の音の和音の響きを、各人耳にして発声する方法など、工夫して、指揮者との連携を考慮した演奏法を工夫されては如何ですか。
ワグナーのあの曲は、半音階の転調への移行があって、オーケストラの弦楽器部の競演なら純正調で良く合うのですが、ピアノは平均率ですから、歌が仮に純正調で綺麗に演奏出来ても、ピアノとは合いません。わたしの経験では、バイオリン曲のベートーベンのロマンスG曲を、ピアノ伴奏の練習を聞いて、オーケストラとの場合とこんなに曲が違っておかしくなるか?! とビックリした事が有りました。今回も曲が始まって、やばい!、と思ってたら、予想通り。ピアノ伴奏の場合の選曲には、ご注意のほど。
安本さんのソロは、私の心配をかき消した、素晴らしいテノールでした。ブラビッシモー!
(FAXで頂戴しました。12/28掲載。管理人)
思い出す事
二十年前、取手市民ホールで、歌い終えてから、取手駅前、奈良漬屋の向かいの「イザカヤ」に、なだれ込み、反省会と称して何回、たむろした事でしょう。私は東京なのに、良くお供したのを、思い出します。始めは人数も少く、十二、三人位で練習の合間、お薄お抹茶を点てて上げた事もありました。その内に団員が増え、多彩で個性強い紳士が入って、ますます活気づき、次第に難曲に取組み今日の成果をみるに至りました。
継続は力成り。素晴らしいハーモニー。
指導よろしきもさる事ながら、団員のやる気には、ご家族ならずとも、外からの私もびっくりするばかりです。四年後、60名が、またまた増えるやも知れません。
期待しています。弟八回定期演奏会、見事、おめでとうございました。お疲れさまでした。
<第八回 定期演奏会に絆(ほだ)されて>
受付で 終りは九時です 念押され
始まって 曲を聞くより 友さがし
魅力的 唐音 低音 しびれちゃう
みんなソロ やりたい顔して ハモってる
ブラボーと 感極まって 大拍手
ブラボーは 皆にも喝采 モチ夫(おっと)にも
実力よ 音響抜群なんて 云わせない
特訓の 成果 拍手が 鳴り止まず
レベル高し ドイツ語なまりの ラテン語と
田村さんを気遣う仲間 舞台ににじむ
二十年 声出し続けて 皆若い
二十年 客席見廻わす 余裕(ゆとり)出来
二十年 ささえた妻よ ありがとう
二十年 寝ても覚めても 歌の事
二十年 黒髪 気づけば 白まじり
ホントカイ! 無形文化財 冗談かい?
常磐線 沿線住いで 常男会
<演奏終えて>
マアマアと 云いつつ三曲 アンコール
団長も カーテンコールに 上げて欲し
和気あいあい 跳ねたロビーは ラッシュ並
帰路遠く 名残り惜しけど 足早に消ゆ
六十名 取手の男声 希少価値
それスタートだ 四年後目ざして 体調管理
八十路過ぎ鳴かず飛ばずの 阪東 T子 拝
(2007.12.10受付・掲載)
「U Boj」が歌いたい
「U Boi」 いわずと知れた男声合唱曲の定番である。 クロアチア語ではあるが勇壮な曲想はどうにもこうにも酒に合う。 学生のころは夢を語り合い酒を酌み交わしながら、友とよく歌った。
はたして何年この歌を歌っていないのだろうか。
ようやく第八回定演「取手公演」が終わった。諸先輩方のドイツ語5曲暗譜へのご苦労振り、正直頭が下がった。 きっとしばらくは意味不明の言語の曲はご免こうむりたい所だろう。 「UBoi」を皆で歌いましょうなんて言ったらきっと・・・。
次回定演のひとステージは世界の歌なんて話が出ています。 「UBoi」が入る様画策しようと思います。 万が一実現してしまったら・・・皆さん、その時はお付き合いよろしくお願いします。
U
boj, u boj!
Mac iz toka, bane,
nek dusman zna kako mremo
mi!
♪♪♪〜♪
バリトン 伊藤(2007.11.19受付)
合唱連盟20周年記念の催し
xx様
20年目を迎える合連の記念イベントの内容について、アンケート調査がなされていますね。 いろいろご検討の由、実行委員様、ご苦労様です。どんなステージになるのか、ちょっと予想が付きませんが。
日ごろ個別に活動している各団体が協力して大きなイベントをする、貴重な機会ですね。
現時点では何も決まっていないとのことですが、やはり合同ステージは欠かせないのでしょう。 でも昨年(15周年)の合連合同演奏について私は「練習期間が長すぎる」「全員参加のステージが多すぎる」と感じました。例えば単純な話、「土の歌」チームと「オペラ」チームを分ければ、大人数で舞台をはみ出ることもなく、練習ももっと能率良く進んだのではないでしょうか。